聖武天皇の「汚点」 罪なき人々を自害に追い込んだ「残酷な処世術」とは?
日本史あやしい話27
■聖武天皇は、大仏建立で人々を苦しめたことを懺悔していた?
「お水取り」とは、二月堂で催される修二会(十一面悔過法要、現在は3月1〜14日開催)という法会の中の一行事で、奈良における春の風物詩としてよく知られる行事である。
一般的には、巨大な松明を手にした練行衆なる僧侶が舞台を駆け回る光景がよく知られるところであるが、主となる行事は、ひっそりとしたこの「お香水」の汲み上げ儀式の方である(こちらは非公開)。
それが催されるのが旧暦の2月12日深夜から13日未明にかけてで、二月堂階段下の閼加井屋(若狭井、福井の若狭と繋がっているとも)なる井戸から水を汲み上げて、本尊である十一面観音に奉納するというもの。「不退の行法」として、752年から一度も欠かさずに行われ続けてきたというから驚くばかりだ。
この行法の目的は、一言で言えば「懺悔」ということらしい。しかし、誰が何のために懺悔するのかとなると、実のところ明確ではない。練行衆が、人々に代わって過ちを悔い改めて人々に幸運をもたらすと見なされることもあるようだが、果たしてそれだけだろうか?
気になるのが、懺悔する主体者が一般の人々ではなく、大仏を建立した聖武天皇自身だった、との説である。人々の平安を願って推し進められた大仏建立だが、実際は多くの人々に経済的な負担をかけ、多くの人命を損なった上での建立であった。天皇自身が犠牲者に懺悔するために、大仏開眼に先立って修二会の行を執り行ったとの見方である。
■「自害の直前に水を飲んだ」という逸話とつながっている?
そしてもう一つ、それ以上に気になるのが、この行事自体が、「長屋王の死の情景を再現したものだった」との説である。
長屋王は自害するにあたって、最後の水を飲んだと言われる。それを汲み上げたのが邸宅内の井戸で、その最後の情景を復元したのがこの「お水取り」の儀式だったというのだ。長屋王や吉備内親王及びその子らが首を括って自害したのが2月12日丑の刻(深夜1〜3時頃)であったところから、「お水取り」の儀式も同日同時刻(正確には2月13日未明)に執り行われていたという。
となれば、ここでも懺悔の主体者は、長屋王を根拠のない密告を信じて死に追いやった聖武天皇ということになる。長屋王が祟って出たかどうか定かではないが、吉備内親王は吉備聖霊という祟り神として恐れられた(永井路子氏説)というところからしても、天皇にとっては、取り急ぎ懺悔する必要に迫られたのだろう。
いずれにしても、吉備内親王の悲運の根源は、取り巻く人々の飽くなき欲望にあったことは間違いない。皇位という権力の頂点に上り詰めたい、あるいはその権力を自在に操りたいとする人の心持ちが、彼女をどん底に陥れたのだ。権力への欲望がいかに愚かなもので、かつ人々を不幸に陥れるものであるのかについて、あらためて考えさせらされてしまう話である。
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